日本企業の「和を以て貴しとなす」を考えた。 [仕事]
日本の会社は「和を以て貴しとなす」が基本。
構成人員は「感情を持った人間」である。合理的判断ができる「機械」ではない。
相手は人間である。恨み、嫉妬、憎悪、といった負の感情ももちろん持ち合わせている。
出る杭は打たれ、上申は「天へ唾吐く」とみなされる。
今日の味方が明日の敵になって、恩は仇で帰ってくる。
会社は人間関係の縮図であり、そこを生き抜くためには「和」を一番に考える必要がある。
なんか違和感ないですか?
なぜ、日本の会社はこんなに人間関係が濃いのか。
海外の他の会社を知らないので語れないのが歯がゆい。
が、違和感があるのは、「何のために和を貴しとなすのか。」がよくわからない点にある。
人間の社会は、その存続自体が目的なので、
「社会活動が破綻しないように和が一番重要」というのはわかる。
一方、会社活動は存続自体は大きな目的ではない。
会社活動の目的は、「利」にある、と考える。
社会の「利」、顧客の「利」、会社の「利」、である。
「利」を考えない会社は世間の癌になる・・・・言い過ぎかな?
3つの「利」を考えず「和が一番」と言ってしまうと、会社のありようは内向きになる。
例えば東電のように。
よく見られる会社で生き抜くための処世術は、「会社」と「個人」で語られることが多い。
「組織力の為に個人は殺そう」
「評価は上司が決める、長いものには巻かれろ」
「会社員でいることで多くの蜜を吸っているのだから、犬になれ」等々。。。。
関係が「会社」と「個人」で閉じているなら、確かにこれらは最良の選択かもしれない。
しかし、関係は「社会」ありきだ。
「社会において個人を殺すことは最善か」
「会社での評価は上司が決めるが、それと社会での評価は全く別」
「犬になったことにより、社会に対して大きな背任はしていないか」
関係の中に「社会」が入るだけで、価値基準は大きく変わってくる。
会社の中の「和」と、社会における「和」は全く別物だ。
これに世界が入ってくるとさらに「和」の解釈は変わってくる。
さて、これからの時代の「和」は、今までの解釈のような内向き部分最適ではなく、
全体最適の「和」でなければいけないと考えるが、いかがだろうか?
構成人員は「感情を持った人間」である。合理的判断ができる「機械」ではない。
相手は人間である。恨み、嫉妬、憎悪、といった負の感情ももちろん持ち合わせている。
出る杭は打たれ、上申は「天へ唾吐く」とみなされる。
今日の味方が明日の敵になって、恩は仇で帰ってくる。
会社は人間関係の縮図であり、そこを生き抜くためには「和」を一番に考える必要がある。
なんか違和感ないですか?
なぜ、日本の会社はこんなに人間関係が濃いのか。
海外の他の会社を知らないので語れないのが歯がゆい。
が、違和感があるのは、「何のために和を貴しとなすのか。」がよくわからない点にある。
人間の社会は、その存続自体が目的なので、
「社会活動が破綻しないように和が一番重要」というのはわかる。
一方、会社活動は存続自体は大きな目的ではない。
会社活動の目的は、「利」にある、と考える。
社会の「利」、顧客の「利」、会社の「利」、である。
「利」を考えない会社は世間の癌になる・・・・言い過ぎかな?
3つの「利」を考えず「和が一番」と言ってしまうと、会社のありようは内向きになる。
例えば東電のように。
よく見られる会社で生き抜くための処世術は、「会社」と「個人」で語られることが多い。
「組織力の為に個人は殺そう」
「評価は上司が決める、長いものには巻かれろ」
「会社員でいることで多くの蜜を吸っているのだから、犬になれ」等々。。。。
関係が「会社」と「個人」で閉じているなら、確かにこれらは最良の選択かもしれない。
しかし、関係は「社会」ありきだ。
「社会において個人を殺すことは最善か」
「会社での評価は上司が決めるが、それと社会での評価は全く別」
「犬になったことにより、社会に対して大きな背任はしていないか」
関係の中に「社会」が入るだけで、価値基準は大きく変わってくる。
会社の中の「和」と、社会における「和」は全く別物だ。
これに世界が入ってくるとさらに「和」の解釈は変わってくる。
さて、これからの時代の「和」は、今までの解釈のような内向き部分最適ではなく、
全体最適の「和」でなければいけないと考えるが、いかがだろうか?
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