SSブログ
前の10件 | -

読書感想文 「だれのための仕事」鷲田清一著 [読書]

この本は就活する人や仕事で疲弊している人に読んでほしいと思うのでしつこく紹介します。

私は就職後にうつ病で長期離脱していました。
最近までその理由をうまく言葉にできないでいたのですが、
この本を読んで私はどのような世界にいたのか、いまさらですが分かった気がしました。


序盤でシモーヌ・ヴェイユの工場日記が引用されています。
「このような隷属状態には2つの要素があるの。つまりスピードと命令よ。
……いったん機械の前にたったら、一日に八時間は、自分のたましいを殺し、思考を殺し、感情を殺し、
すべてを殺さないといけないの。……行動は四六時中、労働のためにしばられているんだもの。
こういう状態では思考は小さくかじかんでしまうわ。…‥.人は「意識を持つ」ことができないのよ」(P.61)

人は意識を持つことができない。つまり自分が機械にになったよう感じられる。
これはなぜか?思い切りまとめると、

現代の産業社会は生産性の追求を目的とし労働も余暇も社会のシステムとして最適化されている。
そのなかで人はずっと何かに操作さているような感情から開放されず、
私という存在が揺さぶられることが無くなる。
つまり人生において意識を持つことができなくなる。


著者はこのことを仕事と遊びをキーワードにして考察しています。
仕事とは自分の本質の<外部化>、自己実現であり、
遊びとは自分の存在が揺さぶられるための空隙、間、ずれだとします。

ここでは仕事と遊びを対立するものとは見ません。
遊びについては以下のように言っています。
「いつも身体で補強しておかないとすぐにぐらついてしまう「人生」という演技……。
人生とは、きっと最後まで、存在の芯にずしんとくるほどディープなゲームなのだ」(P.103)

人生そのものが私という存在を揺さぶる遊びそのものだと。

しかし現代では人間が一義的に規定された機械的プロセスの一部となったため、
仕事の中から遊びがなくなり労苦を伴う労働となりました。
そこで労働に対するやる気を出させるためデザインされたのが余暇だということです。


生産性の追求のために大きな工場が必要で、
工場には機械的プロセス一部として労働する人間が必要で、
高度な機械的労働者には高度な専門教育が必要で、
専門教育のためには幼少時からの学習が必要で、………


私は中学生の頃からエンジニアとして働くことを目標に勉強し、
工学部を出てメーカーへの就職を実現させました。
しかし、それが自分を生産性のために最適化していく過程であり、
最適化した結果、人間として生きることを手放していっただなんて露も思いませんでした。

というわけで、
就活している方々にこれから飛び込もうとする世界がどのような構造を持っているかを
知ってほしいと思い、しつこく紹介させていただきました。

よろしければ手にとっていただくたく。



だれのための仕事――労働vs余暇を超えて (講談社学術文庫)

だれのための仕事――労働vs余暇を超えて (講談社学術文庫)

  • 作者: 鷲田 清一
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2011/12/13
  • メディア: 文庫

自分の商売が何を売りとしているかを知ることが大事。 [仕事]

3月4日の日経朝刊に三越伊勢丹新宿本店の売り場について書いてありました。

なんでも婦人服売り場に「パーク」というスペースを設けていろいろ情報発信をしたところ
売り場面積を15%減らした代わりに売上を15%伸ばすことができたそうです。


この記事を読んで「自分が何を売っているのか知ることが大事だ」と考えました。




婦人服売り場はファッションを売っています。

もう少し言うなら服ではなく他人の目線を集めるためのノウハウを売っています。

他の女性や男性からどのように見られたいか。そのためにはどのようにすればいいのか。

そのための方法を服のサイズ、色、組み合わせのノウハウを提供するのが婦人服売り場の商品です。

三越伊勢丹新宿本店の場合、その商品を効果的に提供するには品揃えよりも

ファッションをはっきり見えるようにすることが売上に効いたんだろうと、そう考えました。




コンビニは店頭の品物ではなく時間的利便性が売りです。

台湾などのEMSは製品ではなく調達力やコスト力が売りです。

自分たちの商売が何を売りとするのかは、わかっているようで結構ピントを外します。

特に産業社会から高度消費社会とよばれる形に移行したことで外しやすくなってます。

日本の電機メーカーがAppleをただ盲目的に後追いしてスマートフォンの完成品を売りにしたことなんて、

そのいい例ではないでしょうか。

自分の商売の売りが何で、そのために最適な売り方は何であるかを考えるのはとても大事だと思います。




私がこんなことを考えたのは、上の記事を読む少し前に

鷲田清一著の「だれのための仕事」を読んだためです。

だれのための仕事――労働vs余暇を超えて (講談社学術文庫)

この本は就活をしている人、またはしようとしている人にぜひ読んです。

この時代において働くとはどういうことか。

各企業の商品開発がどのような前提の上で行われているか。

消費者と呼ばれる人々の欲望とは何か。

これら会社人生を送る上で、その生活がどのような構造を持っているかをわかりやすく俯瞰できます。

私も学生の時に読んでおけば、会社人生もだいぶ違うものになっていたと悔やんでいるところです。

この本が就活本コーナーにないところが、いかに就活が病的なものかを表しているようにおもえてなりません。




タグ:鷲田清一
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:仕事

「クリエイティブは自分の中からしか生まれない」 [デザイン]

大阪デザインセンターのデザインビジネス塾を聴講した雑感を少々。


デザインは徹底して「人」に注目するものだと考えます。

どんなプロダクトにも空間にもそこには必ず使う人や作る人や通りがかる人など

多くの人々がいます。デザインではそんな人々をどれだけ意識できるかが問われるんじゃないでしょうか。


そんなデザインで最初に意識すべき「人」は自分自身でしょう。

講師の一人は「クリエイティブは自分の中からしか生まれない」とおっしゃいました。

自分がどのように世界を見ていて、何をすることが楽しいかを考え、そして何に気づくか。この気付きがクリエイティブそのものなんじゃないでしょうか。


今期のデザイン塾のテーマは「ソリューションの技法」。

ソリューションは問題発見/設定が全体の8割を占めます。

この問題設定を自分の言葉で表現できれば、それはすでにクリエイティブを生み出しています。しかしこれがネットや雑誌での表現と同じだと劣化コピーしか作れません。


世界の諸問題に対して新しいソリューションを提案するには

問題を自分の言葉で表現すること。

そのためには

自分がどのように世界を見ているか。

自分は何に心惹かれるのか。

そこから自分が何に気がついたのか。

これらを意識して日々生活し、より多くの人が自分自身に気がつくことによって

世界を少しづつ良くしていけると思いました。


オタクが臭いことを正当化してみる! [雑感]

私はオタクである。

 

ここで言うオタクはリア充がアピールに用いるものではない。

社会常識からずれ、同じような服装で群れ、世間から冷たい視線と嘲笑をあびながらも

デュフフフフと笑っているようなあいつらだ。

 

オタクは自意識が高いし、自分では何も作らないし、文句ばかり言う。

だからオタクは嫌われる。

 

一方でオタクは興味を持ったものを消費し尽くす。

興味対象を喰らい骨をしゃぶり粉々にして成形し直し、

それにありもしない幻想を持ち再生産しつづけまた喰らう。

さらにクリエイターに精神的圧力をかけて無理矢理に働かせようとする。

世間が見向きもしないゴミのようなものにくっつき腐臭をあげながら熱を発し喜んでる。

生ゴミにくっついてるバクテリアや菌のような連中。

実際臭い人は多い・・・

 

 

しかし、だ。

オタクが多く自生する市場はコミュニティになる。

オタク同士で提供されたコンテンツを不必要に細かく分析し、文句をいい、

破綻した論理で論破し人の上に立って悦になってる。

はたから見れば嫌なコミュニティだが、

でもこれらがたま~にクリエイターの養分になることがある。

オタクも役に立っている。

 

 

そう、生態系に光合成をする生産者とそれを食う消費者がいるのなら、オタクは分解者なのだ。

 

 

 

これはオタクがいない大量消費市場とは大きく違う。

そこでは受け入れられなかったものはゴミのまま。

またブランディングで作られた熱心なファンというのもただ購入金額が大きいだけ。

そいつらが飽きたら購入したものはゴミになりもうそのまま。

 

しかもそのゴミは不燃ゴミで現実の環境負荷を大きくするだけ。

本当にゴミ、産業廃棄物。

そこで新しいクリエイターやアイデアが生まれることがない。

森を切り倒して砂漠化させてるようなもの。

 

でもオタクが自生してる市場は生ゴミが分解され腐葉土になり次の畑になるし森にもなる。

この違いは大きい。

 

 

現実にバクテリアや菌がいなければ私たちは生きていけない。

バクテリアや菌だって大事なんだ。

だからオタクは胸を張っていいと思う。

胸を張って好きなものに執着し腐臭を放てばいいと思う。

 

 

そう、だから俺が臭いことは悪くない!!


nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:仕事

ラーメン感想 大阪・道頓堀 「ひげ坊主」 [ラーメン]

大阪・道頓堀のラーメン屋「ひげ坊主」の
黒豚飛魚ラーメンを食べてきました。

IMG_3788.jpg

とてもおいしかったです。
積極的にまた行こうと思います。

少し透明感がありごまが散らせてある豚骨スープに麺は細め。
多めのキクラゲ、ネギ、チャーシュー、のりがトッピングされていました。

スープの第一印象は旨味が甘いこと。
甘い旨味がとても濃い。
豚骨の臭みはなくこってり感もありません。
だからといって薄味で物足りなくなることもなく
非常においしいスープでした。

よく食べ始めはおいしいけど、中盤以降塩辛さで舌が疲れるラーメンも多いですが、
この豚骨飛魚ラーメンは食べ進めていっても塩辛さで舌が疲れることなく、
ずっとおいしいままで完食できました。
多めのキクラゲも麺とあわせて食感の変化を楽しむのによかったです。

食べはじめから終わりまで食べる人を飽きさせず疲れさせたりしない
非常に丁寧に作られたラーメンだと思います。


大阪府大阪市中央区道頓堀1丁目1−11

タグ:ラーメン
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:グルメ・料理

ラーメン感想 京都「猪一」 [ラーメン]

京都のラーメン屋さん「猪一」の感想。

IMG_3784_02.jpg


おいしかったです。
またいきます。

食べたのは 和牛そば(黒) 950円
ベーシックな中華そばで家系のようなインパクトはありません。
しかし全体的に非常に安定感のあるおいしさでスープはほっとするような旨味があります。
アクセントに別皿で添えられてくるゆずの皮を入れると最後も飽きがきません。
飲んだ後の締めにもいいと思います。




読書感想文 「責任という虚構」著:小坂井敏晶 [読書]


責任とは一体何か?

著者は一貫して「責任は因果律に基づかない社会的虚構だ」と主張します。

責任は客観的な事実ではないのか?

例えば交通事故の責任を客観的に特定しようとしても、その原因はドラーバーはもとより、

歩行者、自動車メーカー、信号機の設置などなど無限にもとめることができます。

責任は客観的に求めることができません。

では、なぜ私たちは責任を求め、また責任を求められるのか?

著者はその理由をポール・フォーコネを引用し言います。

「犯罪の代替物として適切だと判断され、この犯罪に対する罰を引き受ける存在が

責任者として認められる」。


犯罪の原因ではなくて代替物、すなわち社会が納得することが大事だと言う訳です。





ではそのような虚構はいけないのかというとそうではなく、

著者は私たちは虚構が無いと生きていけないとします。

それはなぜかということをジョン・ロールズの正義論を批判しつつ論じます。

正義論の以下の部分を批判します。

・能力の高い者はその能力を社会の最底辺の人々のために役立てないといけない。

・そのモチベーションの為にある程度の貧富の格差を是認する。

さらに正義論から下記を引用をしています。

「最も恵まれない状況に置かれる人間が他者より劣ると考える必要は無い。

一般に同意された公共原理によって、彼らの自尊心は保証される。

自分と他者とを分ける絶対的または相対的な格差は、他のタイプの

社会に置ける格差に比べれば甘受しやすいはずだ」。

ロールズは社会の秩序を虚構ではなく「一般に同意された公共原理」、

すなわち能力の優劣によって記述しようとします。


著者はこのような「公正な」社会は地獄だといいます。

著者の言から引用します。

「最下層に生きる人間にもはや逃げ道は無い〜

自分が貧困なのはまさしく自分自身の資質や能力が他の人より劣るからに他ならない。

社会にある貧富の格差は正当であり、差別や社会的制度に欠陥が有る訳ではない。

恨むなら自分自身の無能を恨むしか無い」。

ロールズの世界は

「不幸はすべて彼の能力や出自に原因があるが、それは仕方の無いことで諦めたらいい。

能力を持つ人が最低限の生活の面倒をみるから」というもので何ともおぞましい。


正義論では能力の優劣という原因が先にあり、その結果として

格差が生まれているように見えますが、それは違う。

先に貧富の格差があり、その理由を能力に優劣で語っています。

結果の説明に都合がいい原因を作り出し正当化しています。

この論法は現前しているあらゆる不平等、不具合、不正をすべて個人の優劣に転嫁できます。

女性差別が有ったとしても、「あなた個人の能力がないから」と言うことができます。

まさに地獄です。




現在の「一般に同意された公共原理」は

お金を稼げる人が正義で、稼げない人は無駄・お荷物・コストと言った悪というものでしょう。

まぁ、実際に悪というと角がたつので「自己責任」と言うのですが、

これも「君が貧乏で報われないのは自分ががんばらないからだよ」といって

格差を正当化し社会を安心させる生け贄なのでしょう。



虚構のある世界、例えばボッブスのリヴァイアサン = 君主のモデルでは、

不平等や不正の原因を君主に求めることができ、言及によって虚構の改変と改善が可能です。

本書を読み、私たちの社会秩序も虚構なのだから、もっと良い虚構を導入できると考えるきっかけになります。

読みやすい本だと思いますよ。

責任という虚構

責任という虚構

  • 作者: 小坂井 敏晶
  • 出版社/メーカー: 東京大学出版会
  • 発売日: 2008/08
  • メディア: 単行本

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:

iPhone5SからみるAppleのイノベーション [テクノロジー]

iPhone5Sの発表は全くワクワクしませんでした。
しかし、Appleはイノベーションを失ったのでしょうか?
私はそうは思いません。
イノベーションを起こす領域をハードからネットワークに移している途中だと見ています。



持論ですが、ネットに関する事業のインパクトは
「データの量×データの種類」に左右されると考えています。(下図参照)
ブログ データと経済規模20130911201903109.jpg

この図は横軸に時間、縦軸にデータの量×種類をとっています。
円の大きさは事業のインパクトを示しています。
データの量×種類が大きくなれば、インパクトも大きくなるという図です。

左の円①はWindows95ぐらいの時代を想定しています。
使用環境は固定されたデスクトップ、使用する人も一般的とは言えないでしょう。
またネット上にはメールと自作のHTMLページがあるぐらいでした。

中央の円②は携帯電話がネットにつながった頃、imode全盛期を想定してます。
ネット端末に携帯電話が加わり、その接続数と接続時間は一気に増えます。
またネット上には写メール、ゲーム、GPS情報などがあり、その種類と組み合わせも増加しました。

右の③は現在のスマートフォン時期です。
以前のPC以上の機能と携帯電話の可動性が合わさり、
また通信帯域の拡大と、その上に各種センサー類のデータをのせることができるようになりました。




今回のAppleの発表をこの流れに沿って考えると、結構整合しているように思っています。

まず、5Sに加えて廉価版の5Cと4Sの無料提供が発表されました。
これでiOSを通過するデータ量は増大させることができます。

次に、5Sに指紋認証機能を実装し強力な個人認証が可能となります。
これは多くのセキュリティ上の問題を解消し、より価値の高い情報をiOS上にもたらします。
このような機能と情報は他のプラットフォームは持っていません。



googleはページランクを用いてネット上の情報を整理しました。
そしてAndroidを用いて現実環境にアプローチしています。

Amazonはネットショッピングとレコメンドにより高い価値の情報を提供しました。
そしてKindleを用いて現実環境にアプローチしています。


Appleはまず魅力ある端末の普及に成功しました。
そして今、自然言語認識(Siri)、地図、指紋、バイタルなど
より人間活動に近い情報の獲得に成功しつつ有ります。

ならばAppleが起こす次のイノベーションは端末ではない、と考えるわけです。



どんなイノベーションかは具体的に知り得ません。(ゴメンナサイ)
ただ、スマートフォンの競争は目に見えない領域に移行し始めたとは言っていいと思います。



タグ:Apple iPhone Google

婚姻の減少とクレーマーと社会の商品化 [雑感]

婚姻の減少とクレーマーの増加は、同じ社会的な構造から生まれているんじゃないのか?

 というのが今回の論旨です。

 

私は「女性の社会進出」という言葉に強く違和感を持っています。

これは女性が家庭の外で仕事をすることを指していますが、

では、家庭の内で育児などをしている女性は社会に参加していないのでしょうか?

この言葉は暗に「労働力を貨幣に変えないと社会に参加していない」と言っていると考えます。

もう少し言うと「社会参加するにはお金を払え」ということ。

以前(私が覚えている範囲で)は、社会参加するには手を貸せば十分でした。

直接に労働力を提供すれば社会参加できていました。

しかし、現在は労働力を貨幣に変えて商品化された社会を購入しないといけない。

そうなっているように感じています。

 

 

この社会の商品化が婚姻の減少やクレーマーの増加を生む社会的な構造だと考えます。

結婚は高額商品です。プロポーズの指輪からして給与の数カ月分などと刷り込まれています。

またクレーマーは、それが公共物でも、商品として払った貨幣に見合った満足を

得られるようにする合理的な行動の現れです。

問題は、これらの現象の原因と解決を個人の信念や思考に還元してしまうことです。

婚姻について、私なんかは草食系で情けないとレッテルを貼られます(泣。

クレーマーについても協調性が云々などと言われます。

しかし世の傾向としてこれらの現象が大きくなっているのならば、

その原因は個人ではなく社会的な構造に求められるべきです。

 

 

現在の経済は利益至上主義であり、あらゆる事物は商品化・細分化されバラ売りされます。

それと合わせ社会も個人に細分化され、自己責任や合理的行動を求められるようになります。

しかし上のような社会的な課題が生じたときは、原因を個人の責に帰するほかなくなりますが

このアプローチによって解決することはありません。

なぜなら個人の成立はその人の自由意思を認めることであり、アプローチと矛盾するからです。

 

 

現在の利益を至上とし全てを商品化する経済では、ますます社会的な課題が生まれてくるでしょう。

人の営みは社会や巷間で行われ、そこでは細分化され孤立できる事物は無いです。

 そのような観点から、経済は経世済民の意味に移っていかないとマズいと思うのです。

 

 


投入一次エネルギーから日本の生産性を考えてみた。 [テクノロジー]

日本人は本当に生産性が低い仕事しかできていないのか?

このことについて投入された一次エネルギーを基準にして考えてみました。

 

一次エネルギーは生産に用いられるのと同時に、

私達の生活を支え労働力の再生産に用いられます。

なので

 一次エネルギー ≒ 生産過程に必要な総資源

 GNI ≒ 労賃 

とみなして 生産性を考えます。

 

考えてみた結論は

「日本の生産過程は世界トップレベルの効率を有しているが、労賃は低く抑えられている」 です。

 以下、試算です 。

 

 

試算に用いた数字は下のようなものです。

  GNI  GDP 消費一次エネルギ―
  (一人あたり ドル) (一人あたり ドル) (一人あたり 石油換算 本)
日本 34,670 46,735.72 3.9
47,360 49,922.11 7.1
ドイツ 37,650 41,512.75 4

 

<単位エネルギーあたりのGNP>

はじめにGNPと一人あたりの消費一次エネルギーの比をとり、国ごとに比較しました。

日本を1とすると、 

アメリカ 0.58、  

ドイツ  0.87、

と、なります。

同じエネルギーを用いた場合に日本が最も財とサービスを生み出せることとなります。

 

<単位エネルギーあたりGNP に対してのGNI>

次に各国のGNIと、上で出した単位エネルギーあたりGNPの比をとりました。

GNI ÷ 単位エネルギーあたりGNP  を計算しました。

生産した財とサービスに対してどれほどの所得が生じているかを見ます。

日本を1とした時、

アメリカ  2.33

ドイツ   1.25

これより、同じ生産に対してアメリカでは日本より2.3倍、ドイツでは1.25倍の所得が生じています。

 

<結論>

以上より、

 「日本は世界でトップクラスの生産性で財とサービスを生み出せている」

 「生み出した財とサービスに対して、得られる所得は低い」

このように結論できると思います。

 

<その他>

このようなことを考えたきっかけは、

労働と生産の間にあるマネジメントの能力を測る方法を考えだすためです。

経営の方針に従って大きな工場を頑張って稼働させたのに、その工場が収益を圧迫した時、

頑張った人たちの生産性はマイナスになってしまします。

このような方法で「日本人は生産性ガー」と言われるのはちょっと釈然としないわけで・・・

 

安倍首相がGNIを15,000ドル上げるとおっしゃってられましたが、

それでもGNIと単位エネルギーあたりのGDPを比較するとアメリカの2/3程度です。

 

 この試算が全く妥当なものだとは思っておりません。

何かの参考になれば幸いです。

 

 

 

 

 

 


前の10件 | -

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。