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「クリエイティブは自分の中からしか生まれない」 [デザイン]

大阪デザインセンターのデザインビジネス塾を聴講した雑感を少々。


デザインは徹底して「人」に注目するものだと考えます。

どんなプロダクトにも空間にもそこには必ず使う人や作る人や通りがかる人など

多くの人々がいます。デザインではそんな人々をどれだけ意識できるかが問われるんじゃないでしょうか。


そんなデザインで最初に意識すべき「人」は自分自身でしょう。

講師の一人は「クリエイティブは自分の中からしか生まれない」とおっしゃいました。

自分がどのように世界を見ていて、何をすることが楽しいかを考え、そして何に気づくか。この気付きがクリエイティブそのものなんじゃないでしょうか。


今期のデザイン塾のテーマは「ソリューションの技法」。

ソリューションは問題発見/設定が全体の8割を占めます。

この問題設定を自分の言葉で表現できれば、それはすでにクリエイティブを生み出しています。しかしこれがネットや雑誌での表現と同じだと劣化コピーしか作れません。


世界の諸問題に対して新しいソリューションを提案するには

問題を自分の言葉で表現すること。

そのためには

自分がどのように世界を見ているか。

自分は何に心惹かれるのか。

そこから自分が何に気がついたのか。

これらを意識して日々生活し、より多くの人が自分自身に気がつくことによって

世界を少しづつ良くしていけると思いました。


原研哉氏講演「デザインの力」 [デザイン]

7月2日に大阪デザインセンター主催の原研哉さんの講演に参加しました。
その時考えたことをメモします。

 メモしたキーワードは3つ。

◯デザインの力 = 気づかせる力

◯お客の言うことだけ聞いていると、だらしなくなる。

◯ものづくりから価値づくりへの移行

「気づかせる」とありましたが、私達は何に気づく必要があるのか?

 私は、

作り手と使い手が同じ人間であるとの共感を出発点にし、そこからより賢く生きる方法があることに気づくこと必要がある。

そう考えました。

 

 

「お客の言うことだけ聞いていると、だらしなくなる」というのは

お客の美味しいものを食べたいというニーズを満たすことばかり考えてるとみんなメタボになることを指します。

使い手の欲と、作り手の欲のマッチングは欲そのものをふくらませるだけで、これが賢い生き方なのかは非常に疑わしいです。

 実際、「自分が開発した加工食品だけど健康上の理由から自分の子供には食べさせない」。なんて話もよく聞きます。

でももし、この加工食品の作り手が使い手も同じ人間だと意識すれば、

発想が変わって添加物ではなく流通に工夫を加えて問題を解決することに気づくかもしれません。

 

 

この作り手と使い手が共感しあう部分により賢く生きるための方法があるのではないでしょうか?

そして、この賢く生きるための方法が新しい「価値」になるのではないでしょうか?

日本人は特にこの共感する力が豊かなように思います。

 だからこそ日本のデザインはより賢く生きる方法を気づかせ、それを新しい価値として世界に発信し今の不都合を乗り越える力になるのでは?

こんなことを考えてます。


タグ:原研哉

大阪デザインセンターデザインビジネス塾で学んだ事 [デザイン]

今年も大阪デザインセンター主催の
デザインビジネス塾 co-designの募集が始まりました。

スクリーンショット 2013-05-07 20.24.31.png


私は4年前に参加し非常に多くの事を学びました。

でも、何を学んだのかを書こうとするとうまく言葉にできません。

未熟だ・・・



そんな時、私が学んだ事が良くまとまってる文章がありましたので引用します。

  善く行くものは轍迹なし
  善く言うものは瑕謫なし
  善く数うるものは籌策を用いず
  善く閉ずるものは関楗なくして開くべからず
  善く結ぶものは縄約なくして解くべからず

  是を以って聖人は常に善く人を救う
  故に棄人無し
  常に善く物を救う
  故に棄物無し
  是を襲明(しゅうめい)と謂う

  故に善人は不善人の師
  不善人は善人の資

  其の師を貴ばず
  其の資を愛さず
  智といえども大いに迷う

  是を要妙と謂う
 (老子 二十七章)


これをデザイン塾を念頭にざっくり意訳すると、
 
 優れた機構デザイナーは車の轍なんて残さないし、
 優れたコミュニケーションデザイナーは言葉で傷を残さないし、
 優れたUIデザイナーは直感的にコンピューターを操作できるようにし、
 優れたランドスケープデザイナーは特別な装置を用いなくても自然な人の動線を作るし、
 優れたプロダクトデザイナーは最小限の要素で必要な機能を実現できる。

 優れたプロデューサーはみんなが活躍できるようにするから、一人一人の力が発揮される。
 また、うまくプロジェクトが回るように目を配るから実現にむけて無駄がなく推進できる。

 (以下略)
 (正しい現代語訳は書籍等で参照ください) 


「デザインとはなんぞや?」と問われればみんな異なっていて、
しかも正しい答えが出てくるでしょう。

と言う訳で、老子の文脈でデザインビジネス塾を語るのは私の答えです。

本当の事は分かりません。

なので、是非みなさんが参加されて見つけてくださるとうれしいです。

会場は今話題のグランフロント大阪らしいですし。(・・・・・いいなぁ)



家電メーカーの「高付加価値」は不誠実な商売 [デザイン]

日本刀の白銀師さんとのお話しで思ったこと。

付加価値ってのは、

狙ってデザインするものではなく、製作過程にどれだけ手間を込めたかで決まるんじゃないか。

そう思った訳をつらつらと。




日本刀と言えば刀鍛冶さんがよく取り上げられますが、

柄や金物、鞘、組紐等々、その製作過程は細かく分業し、それぞれに職人さんがいたそうです。

面白かったのが鈨(ハバキ)に関する職人さん。

鈨は全体から見れば小さく、また刀が鞘に収められているときは見えません。

にも関わらず、鈨だけでも

鈨を刀に取り付ける職人、

鈨に彫金を施す職人、

色を付けるための鈨を煮る職人、とこれだけいる。

私が手にとった鈨は立派な工芸品でした。



ここでふと考えました。

人ってのは仕事で自己表現をしようとします。

なので、鈨を煮る職人は、そこに自分だけの色や風合い模様を出すようにした。

工程が分業されれば、その分職人は増え、それだけ工夫や思いが厚く重なる。

これが付加価値ではないかと思うのです。




よく家電メーカーの企画の席で「この商品の付加価値はなんだ!」と聞かれます。

しかし、この時点で設定される価値は「付加」ではいけません。

本質的な価値である必要があります。

もしここで付加価値なんてつけたら、それは無駄に過ぎません。



付加価値とは、本質の価値を実現する上で、自然に積み重なっていくもの。

多くの人が仕事で自分を表現したものの結晶。

本質を核として幾層にもその結晶が重なるからこそ、人を魅了する製品になると考えます。




家電メーカーでは本質の価値を考えることをサボり、

おまけばかりを抱き合わせた商品を売りつけてきたから、お客さんに愛想をつかされた。

日本の家電製品をガラパゴスと称しますが、ただ不誠実なことをしてきただけです。



職人さんの仕事を見ながら、羨ましいと思い、同時に反省しきりです。

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Anonymousの功罪 [デザイン]

Anonymousといってもネットの話題ではなく、

デザインの方で語られる無名性のことです。

Anonymousなデザインはよく褒め言葉で聞きますが、

本当にいいことばかりなのでしょうか?


先日、日本刀の白銀師とお話する機会を得ました。

白銀師は日本刀の鍔や鈨(ハバキ)などの刀身以外の金物を手がけてます。

お話とその仕事を観て、なんとまあ細かく丁寧なことをしているのかと呆れつつ感心しました。



特に驚いたのが鈨に対する仕事です。

鈨は刀身が鞘から抜け落ちないようにし、かつ、鞘内での密閉性を保つものです。

t20120302e.jpg

求められる機能から装飾性より実用性が重視されるものだそうです。

その職人さんが手がけられた鈨を見ると、ヤスリ目が入っています。

「これもなにか実用性があるんですか?」とお聞きしたところ

白銀氏さん曰く「それは職人の銘やサインのようなものですよ。」とのこと。

確かに、一様のヤスリ目ではなくところどころパターンが入ってました。

それをしげしげ見ていると

白銀氏「それね、雨の降っているイメージを込めたんですよ〜」と。

私「えっ?ヤスリ目に??」

白銀氏「ええ。ヤスリ目の所々につぶがあるでしょ?それ雨粒のつもりです。」

たしかに、照明の具合でキラキラしています。

これを聞いて、日本の職人はアホやなかろうかと呆れました。

ヤスリ目一つに自分の心象風景を込める手間をかけるなんて・・・

そのことを、白銀氏さんにそのまま言ったら、笑ってました。

その一方で、そんなふうに自分の意匠を込めることが羨ましくも思えました。


私は比較的大きな電機メーカーでお世話になっています。

会社で作られるプロダクトに自分のサインや意匠を入れるなんて、まぁありえないです。

その分、製品が売れないときに自分が否定されているのではないと思わなくてすみます。

売れなくてもあまり気にならないですね。(いや、給与的には危ないですが・・・)

でも、これっていいのでしょうか?



仕事をするというのは社会とつながることも意味します。

作った製品はその接点の最たるものです。

その接点に自分の思い入れが無いというのは、おかしいような気がする。

強く言うと、無駄なことをしているような気がするのです。

Anonymousが進みすぎて、

作り手も使い手もお互いに繋がらない、空疎なゲームをしているのではないかと思うのです。

もう少し、作り手も使い手もお互い顔が見えるような仕事が大事になるんじゃないか。

そんな事を考えています。

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拡張現実と日本の庭 [デザイン]

GoogleのPlojectglassが発表が発表されて話題になってる最近。

私どものエライ人は「これだこれ!」と飛びついてます。

何をいまさら(笑)

10年前からギーグな社員たちは電脳コイルやスカウターのコンセプトを提案してきています。

ただ、そんなギーグたちも昔の庭師に言わせれば「何を今更」ってなると思ってます。

今回はそこら辺を。



今ある拡張現実は「現物に仮想を合わせ込むこと」と一般化できます。

これは日本の庭園設計によくあると思ってます。

例えば「嵐山を借景にし枯山水を作る」このような庭園。

枯山水は概念を形にした物であり、自然の風景ではありません。

しかし、上記の庭園は理屈抜きにすごいと感じることができます。


もうひとつは坪庭。

これは狭小で閉じた空間を石、苔、草木などの配置によって

感覚的な広さを感じさせます。

これも拡張現実でしょう。



昔の庭園を見ると、自然をいかに生活に取り込むかに執念を感じます。

こういう考え方は今ある拡張現実の上位概念ではないでしょうか?

まぁ、アメリカ人がやっと日本人を追いかけ始めた所ではないでしょうか。

私たちの身の回りにも、昔の人の無数の工夫があるので、

いろいろ借用していきたいです。






エコな人達に感じる違和感 [デザイン]

先日、近所の「オーガニックマーケット」によってみました。

こじんまりとしていましたが活気があってよかったです。

しかし、違和感を感じたのでメモしておきます。



私は「エコ」や「オーガニック」というマーケティングが嫌いです。

だって・・・それは大前提です。

自然なんてどうでもいい、とは考えていません。

私たちは自然に依存しないと生きていけません。

問題は、その当たり前のことと生活の利便性をどう両立させるのかだと考えます。

多くのメーカーはお客さんの手元での価格や、ちゃんと在庫できるか等

現実の経済性を考えて商品開発しています。

「エコ」だから価格が高いんですとか、歩留まりが悪いんですというのがまかり通るのは嫌です。



自然の都合のいい所だけを切り出してパッケージするのも嫌です。

自然には恵みはもちろん、毒や危険もあるだろうと。

都合の悪いところは「エコ」じゃありませんというのは歪だと思っています。



「エコ」な人達の既存のメーカーは間違っていて、私たちは正しいという意識の高さが

違和感の正体なのかもしれません。

まぁ、私は工業サイドの人間なのでやはり歪んでいるのでしょうね。



何でもロボットにしたがる電機メーカーのエライ人 [デザイン]

私はデジカメで街を撮り歩くのを趣味にしています。

初めはiPhone4sで撮ってました。

これが馬鹿にできないのです。

APS-Cで撮ったものと比べても、写真によっては判別できません。

ただ、ネタを見つけてシャッターを押すまでがもたつきます。

一日で200枚撮ると疲れます。

なので、昨年末にSONY NEX-5Nを買いました。

理由は見た目と、APS-Cと、レリーズタイムの3点。

買って正解でした。

ネタ発見からシャッターを押すまでの時間が一気に短縮。

一日で500枚程度を撮れるようになりました。

一連の動作の中から少しでも連携を高めると、一気に使い勝手がよくなる。

カメラの世界はそんな小さな工夫を一つ一つ積み重ねてきたんだなと感心しました。



カメラを使いながら、道具は身体性を拡張できないといけないのでは?なんて考えています。

人間には「写真を撮る」なんて機能は付いていません。

一歩一歩カメラを洗練させることによって、写真を撮ることに人間を近づける。

そして多くの人間が写真を取れるようになり、意識が変わっていく。

道具を洗練させることで、人間自身も進化していってます。

人間を拡張できるかどうか。

道具の根本はそこにあるような気がします。



最近は道具なのかロボットなのか判別しにくいプロダクトが多いです。

どちらが悪いというわけではありません。

使う人とその能力によって、ロボットと道具の線引きは変えるべきでしょう。

カメラでも、私のようなアマはAFを重宝し多用しますし、

上級者はMFの利用機会が多くピントを決める手段を用意してます。




ただ、このことを意識していない作り手が結構多いです。

私はメーカー勤務ですがこの手の話がちゃんとできません。

エライ人は「使いやすくしろ!」と指示を出しますが、

それって「誰にとってのどういう使いやすさか?」と明示しません。

チームで検討進めてもここをきちんと決めずに進みます。

なんとか形にしてエライ人の判断を仰ぎに行くと

「使いにくい!もっと自動化しろ!」と宣います。

使いやすさ=自動化 となっているのです。

確かに自動化がハマれば便利です。

そう、ハマれば、です。

何千人ものお客さんみんなに適した自動化?

そんな高度な自動化技術作るのですか?

結局中途半端な自動化にならざるを得ず、お客さんの不評を極めることになります。


なにがまずいかというと2点です。

1. 使ってくれる人を全く見ていない。

2. 人に近づいてもらう部分と、道具が近づいていく部分の見極めをしない。


って、こう言うことはデザインやモノづくりの基礎として私みたいな下っ端でも教わるのに

なぜエライ人たちはこのことを無視して商品を作ろうとするのか・・・

私が間違っているのでしょうか?
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企業のデザイン力の測り方 [デザイン]

デザイン力とはなんぞや?

デザイン自体が非常に広くなっているので一概には言えませんが、

そのひとつに、「人に作用する力」があると思っています。

で、企業においてデザイン力を測る指標を見つけました。

それはスローガンの数。


「経営層から出されるスローガンが多いほど、その企業のデザイン力は乏しい。」


人に何か作用するためには、人の心にすっと入っていかなければいけません。

なので、スローガンやコピーは、端的になることを求められます。

その言葉がやたら長いわ、数は多いは、よく分からないでは、

その企業が人に何か作用する力が弱いことになると考えています。

また、社員に対して作用することができないなら、

どうして顧客の心に訴えることができるでしょうか?


私がお世話になっている会社の壁には、現在6つほどのスローガン、標語が掲げられてます。

対外的には、もっと多くのメッセージが展開されています。

はっきり言って、経営層が何を伝えたいのか全く分からない。

ダメな政治家の言語明瞭意味不明ですね。

見方を変えると、伝えたいビジョンがないのかもしれません。

中身がないのをごまかすために、言葉が多くなる。

などといえば、言いすぎでしょうか?(笑)


コンピューターデバイスの進化の方向。 [デザイン]

世界がAppleを追いかけている。

最近の状況はこんなんじゃいでしょうか?

みんな、Appleの背中の向こうに未来を感じているかのように。

ではAppleは何を見据えているのか。

もしかして、人間とコンピューターの世界を限りなく近づけようとしているのではと考えます。

たとえば、マウスの導入。

これによって、人間の指先の動きをデスクトップ上で再現しました。

直感的な操作、人間の意志をよりダイレクトに伝えることに大きく貢献しました。

次は、タッチ操作の導入。

これも、マウス操作と同じ直線上にあり、コンピューターの世界に触るという

より直接的に意志を伝えることができます。


また、デザインも大きく関与しているとにらみます。

iPhoneは確かにかっこいいし、美しいです。

これは単に所有欲を満たすというより、

外観からもより人間に寄り添って自然なものにしようとする試みだと考えます。


つまり、I/Oをより人間に沿ったものにし、人間との意思疎通を簡便にし

外観デザインを洗練させることで、物理的な距離と心理的な距離をぐっと近くすることに

成功した例です。


あらゆる手段をもちいて、コンピューターデバイスを人間に近づける戦略。

これが、Appleの方向性かもしれません。
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